スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

国労から分離した機関車労組 第2話

 前回投稿した記事の一部に誤りがありましたので、お詫びの上訂正させていただきます。 国労から分離した機関車労組 第1話   前回、機関士は判任官待遇と書いたのですが、戦前の身分制度にあって、判任官もしくは判任官待遇の鉄道手とされるのは、全体の30%程度であり、それ以外の職員は雇員としての扱いであったそうです。 お詫びして訂正します。 今回は、時計の針を大きく明治の頃まで巻き戻して、機関士が差額賃金を獲得できたのかを見ていきたいと思います。 戦前の身分制度を概括する についてそして、改めて 戦前の身分制度について概括してみたいと思います。 戦前の国鉄における身分制度としては、以下のようになっていました。 戦前における身分制度 待遇 制度 記事 勅任官 天皇が親任する官吏 月給制・高等官 奏任官 大臣が奏薦し、天皇が勅裁する官吏 月給制・高等官 判任官 大臣・知事が任命する官吏 月給制 雇員 省庁が直接採用する 日給制・判任官への昇任が可能 庸員 省庁が直接採用する 日給制・現在の非正規職員の位置づけ 使用人 省庁が直接採用する 日給制・現在の非正規職員の位置づけ 戦前において、官吏と言えば判任官以上を指し、国鉄にあっても機関士(当時は機関手)は、雇員としての扱いでした。 ただし、同じ雇員であっても賃金に差を付けており、他の職種よりも少し高くすると言う措置が取られたほか、機関手(機関士)は助役・駅長への昇進の道が絶たれていることから、判任官登用試験、及び判任官待遇とする鉄道手制度を設けて機関手の約30%(登用試験合格者及び判任官待遇者)は救済することとしており、年配の機関士は鉄道手として判任官待遇に遇せられたようです。  他の官庁もそうですが、官吏(高等官)と雇員以下の構成比は、3:7程度であり、更に判任官が、高等官の中では一番多くなっています。 国鉄における、当時の現業機関の職員の給与等を比較したのが下記の表です。   駅長よりも高給であった機関手   機関士に有っては、30%程度が判任官もしくは判任官待遇となっており、線路工手などが殆ど庸人(いわゆる非正規職員のようなもの)であるのと対照的です。 さらに、賃金的にも下
最近の投稿

国労から分離した機関車労組 第1話

 昭和24年に国鉄が誕生した3年後、昭和26年には機関車乗務員を中心とした、機関車労組を国労から分裂する形で誕生しました。 そこに至るまでの経緯を、弊サイト国鉄があった時代から引用してみたいと思います。 昭和25年 国鉄労組機関車協議会は、国鉄労組を離れて新たに 機関区従業員の職能組合結成決議 する 11/16 昭和26年 機関車協議会は当局に職能別交渉単位設置を申請 1/17 国鉄労組中闘は機関車協議会の再建を指令 1/21 国労中闘、機関車協議会解散宣言を発表 1/22  国鉄労組中央委員会 1/25~27 国鉄労組第12回中央委員会が、伊豆長岡で開催され、委員長以下三役を新たに決定、これ以外に登別大会決定の闘争方針 (全面講和・永世中立・戦争反対)を堅持し再軍備に反対してたたかうこと、機関車協議会(後の機労)独立の問題等が諭議され組織検討委員会を設置することなどを決定。新組織による最初の役員改選、委員長-斎藤鉄郎、副委員長-星加要、書記長-加藤閲男、中央執行委員-全国区12名、地方区-10名、中央闘争委員10名 以下は日付は不明ですが、以下のような記事もありました。当時の 国労では、機関車協議会の独立問題を含めて、国鉄当局に対しても、 独立した高所単位を求めるなどの動きがありました。結果的には、機関車乗務員でも特に、貨物輸送に従事する職員が多く移行したものの、電車運転士などは国労に残ったものも多かったと言われています。 国労分裂の危機 1/ 機関車協譲会の独立問題をめぐっては、諭議がつづけられていたが、1月末から開催された、国労中央委員会開催の前後から分裂の動きは活発化し、労組に対して独立の要求をだした他、国鉄当局に対しても交渉単位承認の申請を提出、さらには地方区において、本部指令による、国労からの大量脱退。新組合結成などの動きが始まり、国鉄労組は職能別に完全に分解、独立する危機に直面している。  国鉄労組中央闘争委員会と機関車協議会は機関車交渉単位を設けることに合意 2/22 国鉄労組中央闘争委員会と機関車協議会は機関車交渉単位を設けることに合意するも破談 2/26 国鉄労組組の分裂回避、妥協案まとまる 2/29 労組出身の国会議員団の活躍により、分裂回避の妥協案ができあがる 2月29日に示された、労組分裂回避の妥協案に対し、招集された機関車労

初めまして、このブログの方針について

 労働運動史、動労視点について   このブログでは、国労から分裂した、機関車労組の誕生から国鉄改革による動労の動きを時系列に沿ってお話をさせて抱くことを考えています。 なお、動労視点とは言え動労の資料だけに偏る事無く、他の組合の資料野党局側からの資料等も参照しながら、出来るだけ中立の立場で解説を試みる予定です。  労働運動史を書き続ける理由  私が労働運動史を本格的に書き始めたのは8年ほど前に遡ります。 それ以前にも国労がweb上に発表していた年史をアップしていたのですが、其れに解説を加えるという所からスタートした訳ですが、そのうち色々と自分なりに他の資料等を参照しながら、国労だけの視点ではなく、多面的に見た視点から書くことを意識するようになりました。 現在、動労視点のブログ以外にも、先ほど申し上げた労働運動史(これは特に断っていませんが、国労視点としてかかれたもの)これとは別に、労働運動史(鉄労視点)更に労働運動史(別館)ということで、生産性運動(マルセイ運動)に関連する話しと言うことで少佐な解説を試みています。  労働運動史を私が書き続ける理由としては、一つのはより中立な視点で組合の息がかかっていない人間が調べることでより中立な視点でかけるのでは無いかと考えるからです。 国労の組合員だった人は国労の立場から、鉄労の組合員であった方は鉄労の立場から物事を考えてしまうため、どうしても身びいきな感情がたってしまうことから、私のようなそうした意味では色に染まっていない人が書くことに意味があると思ったわけです。 こうした理由から、いささか微力ではありますが、後世の研究者の少しでも役に立てれば良いかなぁという気持ちから、この記事をアップさせていただくこととしました。 宜しければクリックお願いします。 にほんブログ村   にほんブログ村